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孤独の果て~種田山頭火と尾崎放哉

 最近、無縁仏という言葉をよく聞く、ひとり身のひとが死亡して、その遺 体を引き取る人がなく、公共によって簡単な葬儀が行われて、遺骨がそう いう人だけを安置するお寺な施設に保管されるのである。ところが、こう した人、誰も身寄りがないのかというとそうでもないのである。子供や兄 妹がいるにもかかわらず、その遺体を引き取らない場合がかなりあるらし い。本人の生様にその原因があるらしい。たとえば犯罪、借金とか、失 踪、失業とかあらゆる原因で、回りに迷惑かけ、知らせを受けた子供や兄 妹が引き受を拒否するのである。また、孤独死がいま問題になっている。 特に都会の一人ずまいの老人が死亡して、をかなり日数が、経過して発見 されるケースがよくあるらしい。家族などとの疎遠や、近隣の人との付き 合いがほととんどなくなりつつある社会。進む高齢化社会とともにこうし た現象はますます増えてくる。しかし、過去においては、自らこの孤高と放浪の生活に身を委ね、最後を 迎えた人もいる。ひとりは、漂白の俳人、種田山頭火ともうひとりが尾崎放哉である。

種田山頭火は山口県防府で明治14年に出生。父親は、大地主であっ た。しかし、母親は、かれが11歳の時、庭の井戸に投身自殺する。 父親の放蕩が原因らしい。このことが山頭火の放浪の決定的な基因とな る。彼は自伝に、こう書いている。最初の不幸は母の自殺、第二の不幸は酒癖。第四?の不幸は結婚、父親に なったこと。第三がねけているのである?が、推測するにかれの性格、神経衰弱か、父 親の破産か?そして、彼は第四の理由、家庭を持ったことへの後悔を述べ ている。これは妻との関係がうまく行かなかったこと、またそのこどもに 対して愛情を持てなかったことが原因。このあたりは、やはり大地主の父 親を持った太宰治を思わせる。そして、かれの持つ自虐的な精神、スト イックな頽廃がやがて家庭を捨て、放浪へと誘うのである。この感覚は、 中年男なら、なんとなく理解できると思うが。かれは、以外かもしれない が早稲田大学文学部に入学。文学の素養はここで生まれている。また、酒 癖と神経衰弱も学生時代からはじまっている。また女性への感情も最初の 妻との離婚から屈折したものになり、そのあと女性を愛した形跡はない。 35歳のとき種田家の破産と同時に、故郷すてて、熊本へ。そこで、働きな がら、俳句の勉強し、創作を始める。 (燕とびかう空しみじみと家出かな) これはそのとき、読んだ句である。しかし弟が岩国で自殺すると、また酒 癖がひどくなる。その後、文学の師をたずね、上京する。そして、関東大 震災に遭遇し、また熊本に戻るのである。そして、種田家の没落、離婚し た妻、子供への屈折した感情、慟哭が、放浪へといざなうのである。泥酔 した山頭火は、熊本で、事件を起こす。市電のまえに立ち塞がり、電車を止めてしまうのである。急停車し命は助か る。警察に収監され、その後、曹洞宗の寺に身を預け、この寺で出家得度 するのである。一時的にも安堵の地を得たかのようだが、またここから漂 白者として、長きに渡る「行乞流転の旅」が死ねまで始まるのである。東 北、信越までも旅を続ける。その精神の心底は、なかなか他人にはわかり ずらいのが山頭火である。かなり、世俗的な行動もあれば、求道者然とし たところもある。食欲も旺盛で肉欲も求めることもあり、酒に溺れる 日々。

 (酔ってこおろぎといっしょに寝ていたよ)

(酔へば寂しがる木の芽草の芽)

まさに、彼は時には世俗を愛し、世俗から逃げて漂白したのである。ここ に山頭火が、今もなお人気があるように思うのである。

一方、もうひとり の流浪の句人、尾崎放哉は、対象的である。明治18年に鳥取で生ま れる、東京帝大を卒業後、生命保険会社に就職。しかし、36歳のと き、ストレスと酒が原因で降格し、のちに退職。また、ふたたび、朝鮮の 火災保険会社に入社するも、病気になり、またも、退職。実社会では、も はや生きていけないと察し、大学時代から続けてきた、俳句創作に没頭す る。京都の一燈園という修行場には入り、托鉢、労働奉仕、読教の日々を 送る。しかし、体の弱い、放哉は、ここをも去る。そして知恩院に入る も、俳句の師であった萩原井泉水に再会し、感極まり、泥酔して住職か ら、追い出される。こうしてみると、山頭火も放哉も、人生の岐路に必ず 酒がからむ。酒は、精神を解放するが、また興廃を招く。古今東西、変わ らないのである。京都を追われた放哉は、井泉水のすすめで小豆島に行く。妻とも別れた放哉はそこで、41歳までの没するまで のひとりで過ごす。この小豆島で創作した俳句に感動する。

(咳をしてもひとり)

(入れ物がない両手でうける)

(障子あけて置く海も暮れ来る)

5.7.5にとらわれない、自由律俳句の代表的な種田山頭火と尾崎放哉のふたり、ともに孤独の果てをさまよい死んで行った。しかし、このふたり、似ているようでかなり異質なのである。山頭火は、旅を続ける漂白の人、またかなり意識的に自分のスタイルを誇示したようなところがある、一方、放哉は放浪の旅もしたがむしろそれはやむを得ない理由でであり、同じ土 地で、ひっそりと暮らす、庵人であった。私は、どちらかというと、尾崎 放哉に魅力を感じる。かれが保険会社に勤めていて、会社生活の苦悩が共 有できるし、実社会で満たされない日々を俳句で慰めていた とうところも共感できる。尾崎放哉のことを書いた名作 「海も暮れきる」(吉村 昭 著)をおすすめする。何度読み返しても涙する。放哉はむかしで言えば西行、良寛を連想させる。山頭火は、芭蕉や一茶を。い ま、ひとりで過ごす人が増えて来ている。他人との関わりが薄くなりつつ ある現代社会、高齢化が進み一人きりの老人が増えてくる。家族や友人と の絆が本当に大事な時代だと痛感するのである。

アメリカという国について思う・・・

NYで起きた9.11の同時多発テロから10年を迎えた。あの忌まわしいテロを昨日のごとく思い出す。自分は丁度、出張で東京にいてホテルのテレビを見て驚愕した。なにがおきたのか、最初よく理解できず、朝方からTVにくいいる様に見た記憶がある。ワールドトレードセンターのツインタワービルに旅客機がミニチュァのように激突し、ビルの中に吸い込まれるように入っていく様子はなにか映画を見ているような不思議な感覚であった。黒煙があがり、やがてビルが崩壊していく。鉄骨で出来た強固であるはずのビルが積み木のように崩れ去る光景に唖然とした記憶がある。しばらくして、犯行声明があった。オサマ・ビンラディンというサウジアラビア人が率いる国際テロ組織アルカイダであった。それまで、こんなテロ組織の存在など知りもしなかった。犠牲者は2800人にものぼった。そしてアメリカの軍部の本部ペンタゴンにもその後、やはり別旅客機が激突したNEWSが舞い込んだ。そしてもう1機別の旅客機がのっとられ墜落した。まさに全世界を冷感させたこの同時多発テロ、その後の米国はもとより、わが国、欧米諸国にとくに大きく影響を与えた。何故、このような自爆テロをアメリカを標的に実行したのか?米国のこれまでの海外での戦略、外交がもたらしたものなのか?イスラム社会からの強い敵視がこの自由社会、資本主義のシンボル米国に向けられていたの間違いない。それでも何ゆえこれまでイスラム社会から憎悪されるのか・・。これはもう十字軍とイスラムとの戦いのさかのぼる必要はあるが・・・近代においてのイスラエル建国の運動「シオニズム」を語らざるを得ない。シオニズムヘブライ語: ציונות‎, Zionism 英:ザイオニズム)は、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教、ユダヤ・イディッシュイスラエル文化の復興運動を興そうとするユダヤ人の近代的運動。 「シオン」(エルサレム市街の丘の名前 英語(ではザイオン)の地に帰るという意味である(ウィキぺディアより抜粋)1897年にスイスで第一回シオニスト会議が開かれ、バーゼル綱領が採択され、イギリス、フランスが支援し、こうしてパレスチナの地にユダヤ人国家「イスラエル」建設が図られる。ナチスドイツの迫害、追放により、多くのユダヤ人の悲願となる。しかし、すべてのユダヤ人が賛成していたわけでなく(一部の富裕層、ロスチャイルド一族などはむしろ消極的すらあった。)こうして多くのユダヤ人が欧米から移民しイスラエルが1947年に国連によるパレスチナ分割決議を経て、1948年イスラエルが建国され、ユダヤ国家が誕生した。そして以前からこの地に居住していたパレスチナ人との対立が始まる。しかし、隣接するアラブ諸国がすべて、反発していたわけではない。しかし、現実にパレスチナ人は自らを守るため戦うが欧米の支援を受けたイスラエルがパレスチナ人を迫害し、多くの難民が生まれる。パレスチナ人民解放戦線(PLO)が1947年に結成される。主な主張としては、パレスチナ人の民族自決権や離散パレスチナ人の帰還権である。また、政治路線としては、結成当初は「ユダヤ人を海に突き落とせ」という反ユダヤ主義のスローガンを掲げて武装闘争によりイスラエルからパレスチナを解放することをうたっていたが、1980年代頃からは反ユダヤ主義の立場を退け、イスラエルが占有する領土全てを含めた全パレスチナに、イスラム教徒キリスト教徒などからなるパレスチナ人と、ユダヤ教徒ユダヤ人が共存する民主的・非宗教的な独立国家を樹立することを目標とした。すなわち、PLOの主張においては、パレスチナ問題の対立軸はイスラム教徒とユダヤ教徒あるいはアラブ人とユダヤ人の対立ではなく、宗教的に多様なパレスチナ人(パレスチナのアラブ人)と宗教的に排他的なユダヤ教徒シオニストとの対立であるとみなされている(ウィキぺデアより)。二代目アラファト議長が国連で演説し、パレスチナ亡命政府として国際的認知を得る。1982年レバノン戦争でPLOは大きく敗退し、パレスチナ解放は遠のく。米国の圧倒的軍事支援で近代武装するイスラエル軍に対峙するには、ゲリラ戦しかなく、これはベトナム戦争でのべトコンと同様である。ナチスドイツに迫害され大量殺戮されたユダヤ人に対する哀れみと慈悲を多くの人が持つ。そして片方ではユダヤ人国家「イスラエル」に迫害されるパレスチナ人への思い。日本赤軍などはその支援したグループでもある。1991年のオスロ合意によりパレスチナ自治国家が認められ、アラファトとイスラエルのラビン首相がノーベル平和賞を受賞。一時的に平和が訪れたが、1994年、ラビン首相暗殺でまた緊張状態が始まる。一方、あのオサマビンラディンはオスロ合意に反発、もともとサウジアラビアの富豪の息子であったが、米軍の駐留をさせる祖国を見切り反米へと突き進み、「アルカイダ」を組織したのである。こうして歴史を見るとNYのテロはじめ、テロは批判され許されざる行為ではあるが、米国の被害者意識だけでは図りしれない背景があると言いたいのである。その後の報復のアフガン戦争、イラク戦争を見ると、米国の正義、とはなんだろう?と思わざるを得ない。多くの民間人がこの戦争でNYテロの何倍もの数で死んでいった現実。イラクには大量破壊兵器する発見できなかった現実。無条件で追随する日本政府。米国のチョムスキー教授はアメリカこそ最大のテロ国家だとも言っている。欧米自由主義、グローバリゼイションがもたらす弊害。ブッシュのあと、自由の国、アメリカの希望の星として、登場したオバマ大統領、しかし、経済は低迷し、失業率10%、そして1%の富裕層がアメリカの富の40%を独占し、政治も支配している現状。いまその富の象徴であるNYのウォール街にたいして、学生、労働者、失業者の抗議デモの輪がひろがっている。ネットの威力でシカゴ、ボストン、ロスなどにも飛び火。『アラブの春』ならぬ「アメリカの春」とも呼ばれている。あのマイケル・ムーア監督、女優のスーザン・サランドンなども参加し大きな運動になりつつある。日本では首相の交代、菅総理が野田総理に。「どじょう政治」などとキャッチフレーズがもてはやされ、浮かれ、失言、辞職する閣僚、なんか軽いのである。あのきらいな司馬史観に洗脳されたやからが多い松下政経塾出身の首相などには期待できないと思う。混迷する政治のもと、また震災復興、原子力問題、普天間問題原発の対応など問題山積。増税がそぞろ出てきており、財務省のいいなりの政府。もう民主党には失望している。根回しや妥協の政治はもういらない!菅前総理よ四国のお遍路もいいが、脱原発をどうしてひるがえしたのだ!あなたはそれを貫くべきだ。電力会社と地元首長の癒着、やらせ、この腐敗した構図。あなたはずっと市民運動したからわかっているはずだ。薬害エイズのときのように主張を貫くべきだ。民主党がだめならならば自民党か?いや腐ったもう鯛は食えない。共産党、公明党も期待できない、みんなの党、いや、たちあがれ日本とかもあったなあ、舛要のなんとかいうのもあったなあ。与謝野さんどこいっただろう??ころころかわる総理大臣!閣僚!こんな国内政治のだらかんを見て中国やロシアがしきりに挑発してくる。米国頼みの日本、もうこの状況はずっと続く、安保体制がある限り。60年安保闘争、70年安保闘争と先輩、同輩が戦ってきたことが思い出される。あの闘争の意味がいまわかる気がする。
戦後、ずっとアメリカに隷属する日本という国は欧米文化が日本の伝統精神
を飲み込んでしまった。先の見えない日本を憂える。

~終戦記念日に思う~

また、終戦記念日がきた。この時期になると、さきの戦争のことを深く、 考える。もちろん、自分は戦後生まれ、昭和24年だから、まだ、日 本中が復興の真っ最中で、戦争の傷跡がまだ、いたるところに残っていた だろうと想像できる。いろんな、本や、記録映画、テレビなどで、知り得 た情報もとに、自分なりに昭和初期から、太平洋戦争終焉までの、日本 の、歩んだ道を検証し、戦争への自分なりの思いを書いてみたいとおもっ ていた。前にも、何回か、独り言で、書きましたが、なぜ日本は、無謀な戦争に突入したの か?とりあげなくては、いけないのは、いわゆる司馬遼太郎の歴 史観のことである。彼は幕末から、明治時代にかけ、史実を もとに独自に脚色し物語を構築し、近大国家と生まれ変わる日本を小説の なかで、描いて、多くの読者を魅了してきた。特に、特に、幕末における、坂 本龍馬、高杉晋作や西郷隆盛、大久保利通なと、を主人公に書いた「龍馬がゆ く」「飛ぶが如く」などが代表作である。こうした、歴史ロマンは、近大 国家と生まれる変わる日本を、ドラマティックに描き、歴史観をある意 味、固定化してしまった。かれは、こうも言っている「明治という国家は 清廉で透きとおったリアリズムを持っていた」と。しかし、そうであろう か?ペリーの黒船来航から始まった、江戸幕府終焉の序曲は、明治維新と いう、革命により、終曲を迎えた。しかし、近大国家としての道のりは、 険しかった。西郷隆盛の下野、西南戦争を経て、大久保利通を中心にし た、内務省主導で、廃藩置県など諸々の新制度が施行され、明治国家とし ての基礎が築かれた。大久保などの薩摩閥が、明治の初期は、権力の中枢 を占めていたが、西郷の死、大久保の暗殺後、長州閥が幅をきかせてく る。その後、日本の進路を大きく左右する、日本陸軍の基礎が出来るので ある。山県有朋が初代の陸軍大臣として、富国強兵の国策のもと、巨大な 組織として、国家の政治にも影響を与えてくる。米英、ロシア、 独などの列強帝国主義に対抗すべく、軍隊の強化が急務であった。また、 海軍も、薩摩の山本権兵衛が、基礎をつくり、あの日露戦争で活躍した東 郷平八郎が引継ぐ。こうして、日本は欧米列強と対抗すべく、憲法の制定 を急ぐのである。こうした、近大国家への変貌の過程で、登場する人物を 脚色し、小説にしたのが、司馬遼太郎である、「坂の上の雲」大ベストセ ラーになった。政治家、財界人、サラリーマン、はたまた、主婦、OLの 女性にも、読まれた。維新、明治という時代のイメージが司馬遼太郎とい う一作家によって多くの日本人に植えつけられたのである。しかし、明治 維新自体、真実は、もっと陰惨で、ドロドロとしたものであったはず。薩長の 維新に批判的な、作家もいる。早乙女貢の長編小説「会津士魂」はその対極をなす ものである。はからずも、京都守護職に幕府から、任命された時から、こ の会津藩の悲劇が始まる。早乙女貢は、会津藩の人々の、壮絶な末路をみ 如しに描き、薩長の明治維新を正面から批判している。しかし、それほど読まれていない。司馬遼太郎の小説 にも、「峠」など、維新のなか、揺れ動く藩の悲劇を描いたものもある が、たいていは、主人公の人間的な、側面が主で、物語的なのである。 「燃えよ剣」もしかり。司馬歴史観が日本人の大多数なのである。とくに、愚かな政治家、財界人 は、この維新の英雄たちをあげつらう。そして、十人が十人、司馬遼太郎 が好きなのである。坂本龍馬だ、西郷隆盛だと、浮かれていては何も真実 は見えない。しかも、司馬遼太郎は、明治時代以後の小説がほとんどな い。大正~昭和の激動の時代を意識的に避けている。それは、冒頭で述べ たように明治時代というをあまりに美化しているからである。戦争へと突 き進む日本の悲劇の根源は、この明治時代から始まるのである。日清、日 露戦争と常勝に浮かれた日本は、欧米帝国主義に対抗すべく、富国強兵に 邁進する。そして、肥大化していく軍隊、薩長中心の政治の腐敗、日本人 の民族的な高揚がやがて、日本という国を戦争へと導いてゆくのである。 だから、大正~昭和の激動の時代をちゃんと現代人は、認識しないと いけないのである。学校では、この近代史というものを、まともに教えて 来てない。だから、大多数の人が日本が何故戦争に突入したのかを理解し ていないのである。戦争の原因は、いろいろある。主な理由のひとつが経済的な理由もあろうが 、しかし、それだけでは語れない複雑な要因がある。日清戦争の終 結後、欧米列強の中国支配をめぐる争いが、し烈になる。欧米列強に反抗 する、義和団事件が勃発、鎮圧のため、日本も1万3000人も の兵力投入し、日本も列強の仲間入りする。日英同盟後、今度は、ロシア が満州領域に進出。ロシアの脅威にさらされる。そして日露戦争へ。そし て勝利により、国民の高揚は頂点に達する。韓国併合、台湾の領有と続く。第 一次世界大戦では、日本は、英仏の連合国側につき勝利。ドイツの租借す る、山東省の青島と占領、そして、中国政府に大正4年、 21ヵ条の要求をうきつけ、これを受諾させた。まさに、欧米帝国主義に対 抗する、日本帝国主義が生まれるのである。これは、善悪の問題でなく、 日本が、欧米帝国主義の支配に屈しないための、道でもあった。ロシア革 命が起こり、共産主義からの脅威から、8年にも及ぶシベリア出兵 を断行する。ここで、国内的には、関東大震災が、起き、この経済復興を めぐる、施策の失敗が、昭和恐慌への引金になる。いまの、東北大震災の 復興を考えると何か、複雑な思いがする。対中国強行路線の田中義一内閣 が発足し、いよいよ日本は、山東省への派兵を機に袁世凱中国政府に21ヵ条要求をつきつけ、欧米諸国から警戒される ようになる。反日感情が中国民衆に蔓延するのもこの頃からである。孫文 が起こした国民政府が台東し、軍閥を屈伏させ、中国統一を図ろうとす る。田中義一内閣は対中強行路線をとりながらも、関東軍の、拡大路線を 微妙に押さえ込んではいた。しかし、張作霖爆死事件が起こる。これは、 関東軍参謀河本大佐の謀略であることは自身が当事の文芸春秋に発表した から驚く。しかし、政府、軍部はこれを黙認した、田中義一に天皇は、憤慨し、内閣は 総辞職するのである。軍部による外国要人の暗殺に対し、なにも処分が出 来ず軍部の独走を許すことになり、満州事変へと突き進むのである。まさ に、これが後の戦争への序曲となるのである。責任を曖昧にする、日本政 府の体質は、今回の原発事故の対応みても脈々と受け継げられている。そ して、軍閥の台頭は、政党政治を脅かす。永田鉄山、東條英機などの陸軍 士官学校卒のエリートが中心となった「一夕会」なる集団が、日本の進路 に多大な影響を与える。関東軍の謀略で起きた柳条湖事件の処置をめぐ り、またもや政府と陸軍の対立が激化。石原莞爾の首謀によるこの事件 は、不況に喘ぐ国内の事情もからみ、満州こそ、日本の生命線とする軍部 に政府は押しやられる。そして、あいつぐ軍部によるクーデターは、2.26 事件で、暗黒の時代へと突き進む。一部の皇道派青年将校が、国家を憂う 純粋な気概から当初起こされた事件も、巧みな軍部の上層部の政治駆け引 きに利用される。皇道派と統制派との派閥抗争が背景にあったこの事件、 その後、統制派が主流になる。統制派の永田鉄山は、かなり優秀な人だっ たらしい。しかし、皇道派の相沢中佐が永田を白昼、暗殺する。この永田の後を 次ぐのが東條英機だ、しかし、永田ほどの才覚はなかったといわれてい る。永田鉄山が生きでおれば、アメリカとの戦争は回避出来たのではと言 う説があるが。1人の人物が国の命運を決めることはある。指導者 が愚劣なほど、国民が苦労し、国難を乗り切れないのはいつもの時代も同 じである。しかし、永田鉄山も所詮、軍閥のひとり、かいかぶるのはよそ う。

こうして、軍部は内閣の組閣まで、影響を及ぼし、日本は軍国主義へ と突き進む。言論弾圧は強化され、国家統制がひかれる。小林多喜二、袴 田里美などへの弾圧、天皇機関説をとなえる、美濃部達吉への言論弾圧な ど、暗黒の時代へと突入するのである。疲弊した日本経済の活路として、 満州への開拓の思いに国民もまた同時にかきたてられたのである。傀儡皇帝溥儀 を擁立し、「五族協和の王道楽土」を旗印に満州国独立を成し遂げる。し かし、満州のみに飽き足らず、軍部の独走は留まるところを知らない。中 央政府も、この関東軍の独走を追認するしかないところに悲劇がはじまっ たのである。盧溝橋事件に端を発した日中戦争へと邁進していく。国際連盟をはじめ、欧米化諸国の反発をかい、孤立化へと突き進む。 この、宣戦布告なしの日中戦争は、優柔不断な、近衛内閣の場当たり的な 対応で、泥沼化していく。統帥権という、楯に守られ、軍部はますます独 断化してゆくのである。南京陥落など各地で勝利はするものの、広大な中 国大陸を支配するのは不可能なのである。膨大な戦費や、疲弊する兵士。 蒋介石の国民政府と毛沢東ひきいる、共産党が、抗日に歩調合わせる。こ うして、日本は、国際社会からの批判の的にさらされ、ますます孤立化してゆく。 しかし、国内では、戦勝に酔いしれ、新聞などがこぞって国民を高揚し 戦争へと駆り立てるのである。こうして省みると、天皇はこの事態に 憂慮するが、内閣に対し指示することはない。意見は言うが基本的には、 内閣が決定したものを追認するしかない当時のシステムでは、もはや軍部 の独走を止めるものは誰もいない状況であった。節目、節目では、和平交 渉を画策するが、その度、中国に交渉条件を吊り上げると言う暴挙に出る ため実らないのである。これもすべて軍部の強行派が和平派を駆逐した結 果である。そして、ソビエトとの国境紛争,いわゆるノモンハン事 件が勃発する。ソビエトの圧倒的兵力の前に1万7千人の兵士 を失う。石原莞爾が主張した、対ソ戦略は、脆くも瓦解するのであ る。そしてこの頃から、資源確保に「南進論」に重点が移る。こうして、第二次近衛文磨内閣のもと、「国家総動員法」が施行される。 そして、大政翼賛会が結成され、世論は封じ込められる。大東亜共栄圏建 設の旗印がかかげられる。これは、欧米帝国主義に対抗するアジア民族の 独立、結束を主張する。一部にこれを評価するむきがあるが所詮、大日本 帝国のアジア支配の野望でしかないのである。北部仏印への軍隊進駐がい よいよ米英の関係をいっきに悪化させる。そして、国際連盟脱退、日独伊 三国同盟の締結へと突き進むのである。この頃の世論、いわゆる大衆は主 に新聞とラジオからの情報で、形成されていた。言論統制が始まると、批 判的な記事や番組はまったく流れなくなる。こうして国民は思想統制され、 まさに総動員されるのである。また、当事の知識人の多くが戦争高揚論者 であったという事実、(名前を挙げれば枚挙ないほど多い)朝 日、毎日、読売、などの大手新聞はこぞって戦争肯定の紙面を飾る。そして、反戦論者はす べて、検挙され牢獄へ。まさに、暗黒の時代。近衛内閣のあとあの東條英 機が内閣総理大臣に就任し、こうして、真珠湾攻撃を契機に太平洋戦争へ と突入していったのである。振り返ると、政治の腐敗、ころころ変わる内 閣、無責任体質、これに乗じた軍部、とりわけ陸軍の派閥抗争、海軍の日 和見体質、外交の脆弱さ、情報戦のお粗末さ、精神論が蔓延する民族体 質、など諸々の要因がかさなり、不幸な戦争に突入しそして負けたのであるよく、お 国のために戦い死んでいった人たちは、崇高で、立派だと言う。東條 英機が唱えたとされる、「戦陣訓」なるものがあった。これは兵士の規律を重んじる訓辞として終戦まで大きな影響を兵士のみならず一般国民にも与えた。兵士だけでなく、一 般人の多くの人を死にいたらしめた現実と物資補給のないまま、餓死寸前 まで戦い、死んでいった無名の兵士たち。「生きて虜囚の辱めをうけず、 死して罪過の汚名を残す事勿れ」この戦陣訓の一節を、あなたはどう思い ますか?これを日本民族の誇りとか崇高なサムライ精神と言えるのか?!命を大切にしない 余りに低俗で愚劣な一節であると自分は思う。最後にまた司馬遼太郎にもどるが、何故、これだけ の戦争について小説を書かなかったのか?一時、ノモンハン事件について、取材 をしていた時期があるらしい、でも書いてはいない。明治維新から、明治国家にかけ、活躍した人物を主人公にたくさんの小 説、エッセイなと書いている。そして、多くの人がそれを読み感動してい る。しかし、そのあとがないのである。だから、司馬遼太郎ファンは明治時代で思考停止している。国家や民族を 上の目線から見、自分自身を主人公に重ね陶酔するのである。お粗末な腰 の軽い政治家や実業家のほとんどが彼のファンであるという現実みればわ かる。大正から昭和にかけての混沌とした、この時代を検証し、当時の指 導者が犯した過ちを知ることこそ、いまのこの未曾有の危機を脱するヒン トが隠されていると思うが。

終わり

馬敗れて草原あり~憧れの寺山修司&山口瞳のこと

あのあと、第74回日本ダービーが終わり、寺山修司の好きそうな追い込み馬(①番のウィンバリシオン)という馬を狙ったら、見事に2着に。勝ったのが1番人気の⑤番オルフェーブルという馬。一旦①番の馬が出たのだがまた内から⑤番が伸びたのである。不良馬場を見事に差しきったオルフェーブル強いの一言。また、池添騎手の落ち着いた騎乗が光った。こうして毎年、日本ダービーは特別な思いで見る。だれかが言った、「今年のダービー馬を見ずして死ねるか!!」と。そして翌年、そしてまたその次と思うと、長生きするらしい。小生も実は東京で若かりし頃、ダービーの日がたまたま見合いの日で、先輩の紹介してくれる女(ひと)とホテルで3時に待ち合わせ。東銀座の場外馬券場で前売りの馬券を買いあわててホテルに駆け込んだ記憶がある。発走が3時半ごろであり、レースは見られない。見合いの最中もそわそわ、まさかラジオ聞くわけいかず、ずっと話もうつろでした。前の「独り言」でも書いたように、競馬は就職で上京して、先輩に中山競馬場に連れていかれてから。会社の独身寮が調布というところにあり、東京競馬場がある府中のすぐ近く。ということで日曜日よく、友人と行きました。確か、最初の大穴をあてたのが、牝馬のオークス。嶋田功騎手騎乗のナスノチグサが勝ち、同枠の岡部騎手騎乗のスピードシンザン?だったと記憶。⑤-⑤で万馬券にちかかった。確か600円分持っていたと思う。当時まだ初任給 6,7万の時代である。1ヶ月分の給料をわずか、2分半ぐらいで稼いだのである。払い戻し窓口で興奮したのを思い出す。ここから、競馬という悪魔?の世界に嵌りこんでいく。また、生来の凝り性、馬券買うだけでは飽き足らず、競馬関係の本をむさぼり読む。もちろん必勝法本の類もだが、競馬に造詣深い作家のエッセイや小説も。そのひとりが寺山修司であり、もうひとりが山口瞳である。あの太宰治が言った言葉で「男は(おんな)より(おとこ)だよ!」丁度妻の不倫で苦悩していた太宰の有名な言葉である。また、「男は女にあれこれ悩まされるより男の友人のほうを大切にしたほうがいい」という意味らしい。ジャズの店なんかやっていると恋愛のことでいろいろ悩んでいる男をカウンター越しに見てきたが、なーんかね、吉行淳之介の言葉で「(おんな)は永遠にわからない」というのがある。さじずめ、あの頃の私は「男は(おんな)より(競馬)だよ・・・」というところですか、それぐらい毎週競馬が楽しくてしかたがなかった。でも「馬」もわからないんですよこれが、永遠に。裏切られることが多いが、でも馬は言葉が通じないから、すぐ許してしまうんです。(おんな)だとそうはいかない、猜疑心やののしり、罵声、泣き声、そう修羅場と化す。若いうちはいいがだんだん年とるとこれがしんどいのである。スケベな渡辺淳一みたいにいいナオンと失楽園なんて夢見ることもあるが、一緒に心中するには世の中、まだいろんな楽しいことがたくさんありすぎる。そのひとつが競馬なのである。寺山修司の一番好きは「ミオソチス」という名前の牝馬だった。忘れ名草という意味らしい。この「ミオソチス」が中央から地方競馬(いわゆる草競馬)に売られたとき寺山は「花形スターがドサ廻りになった」と評した。ところがこのことが当時の地方競馬船橋の森騎手の怒りを呼ぶ。「寺山は中央集権的で権力志向がつよすぎる」と。反省した彼は騎手を引退後、調教師になった森のところに馬主になり「ユリシーズ」を預ける。この頃から、寺山修司は優等生的、文学青年から変貌を遂げたとも言われている。競馬の世界がかれのそれ以後の精神文化に影響をもたらしたことは数々のその後の競馬エッセイが証明している。またハングリーなボクシングなどに傾倒し始めるのもこの頃。報知新聞の競馬エッセイでの「トルコの桃ちゃん」「スシ屋のマサ」もこうした社会の底辺の人々への思い入れの象徴である。晩年の寺山修司は病魔との苦闘であった。持病のネフローゼから肝硬変を患い北里大学付属病院に入院する。そして病を押して遺作「さらば箱舟」(最初は「百年の孤独」というタイトル)の映画を沖縄で撮り終える。しかしその後河北病院という肝臓の名医の病院に」入院するも帰らぬ人となる。結局、彼には子供がいなかった。絵本「そだつ」のなかで歌っている。父親の思い出がほとんどない彼が父親になれなかっった、いやなりたくなかっと心情を。(父親になれざれしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ) ・・・と。虚言癖があり、言葉をたくみにあやつる魔術師だとも言われている。しかし、当時、田舎から出てきた私にとっては寺山修司は精神のかてでした。海辺で訥々としゃべるJRAのコマーシャルが大好きだった。「かもめは飛びながら歌を覚える、人生は遊びながら年老いていく」寺山修司の競馬エッセイは馬への想いが多く書かれているが、一方の山口瞳は競馬をスタイル、流儀としてとらえているのが面白い。かれの住まいが府中にあり、毎週競馬に通うのがひとつの健康法だと言っている。競馬評論家赤木駿介との共著「日本競馬論序説」に彼の競馬に対する流儀、馬券の買い方が事細かに書かれている。毎回ゲストを呼び「競馬十番名勝負」とかいう記事を掲載した週刊誌を楽しく読んだ記憶がある。あの大橋巨泉との馬券勝負、読み応えがあった。山口瞳はこの本のなかで、1レースで何百万ももうけるような馬券の買い方を戒めている。パドックを行き来し、馬を見て買う馬を決めるいわば王道の馬券の買い方である。決して何万も何十万もひとレースにかけることはしない。そういう人がすぐ競馬から離れると彼は言う。まさに競馬場のなかをうろうろ歩きまわることで健康が保てるという。ハンチング帽をかぶり、紳士然としてひたすら競馬を楽しむのである。大人の粋を感じる。最近の私もこの年になり、このように競馬を楽しめるように少しずつなってきてはいる気がする。かれの名著「草競馬流浪記」をいまでも店の棚に置き、時折読んでいる。いまはもうない日本一狭く、売り上げが少なかった島根県益田競馬場でのエピソードに涙ぐむ。それぞれの地方のさびれた競馬場でいまも懸命に走る競走馬、そしてそれにまつわる人々に山口瞳も、そして寺山修司もいまも暖かい目線を送っているような気がする。来る6月26日(日)は前半戦のしめくくりの宝塚記念が阪神競馬場である。また寺山修司や山口瞳が好みそうな馬を探して馬券を買うことにする。

誰か故郷を思わざる~わがこころの寺山修司~

 

5月29日(日)に第78回日本ダービーが府中の東京競馬場で行われる。毎年、この時期になるといつも思い出すのが寺山修司のことである。私と寺山修司との出会いは、就職で東京に出てきてからである。大学時代も名前は知ってはいたが、さして興味はなかった。大学4年になると就職するか、田舎に帰るか悩みながらも、ただぼんやりこのまま学生生活がおくれればいいというまことに夢も希望もない学生であった。雀荘がよいとジャズ喫茶めぐりに明け暮れる自堕落で怠惰な毎日。まわりがどんどん就職決まるなか、両親を安心させるがために、就職したのである。しかしどうしても東京に出たいためだけに本社が東京にある保険会社を選んだ。そして憧れの東京勤務、なにもかもが初めての世界。配属先が本社の営業課、てきぱきと働くまわりの人がまぶしく見え、不安だらけの毎日。調布にあった独身寮に帰るとどっと疲れた。当時配属先の営業課に1年先輩の人がいた。K大学出のこの先輩にとにかくかわいがってもらった。彼は横浜生まれで、父親が大蔵省という毛並みのよさ。しかし、飲むと非常に楽しい人情家でもあった。当時まだ土曜が12時までの勤務で、友人はもちろん恋人もいないいなかものの私は、この先輩のあとを金魚の糞のようについてまわるのであった。時には彼の彼女と3人で映画見たり、飲んだりした。そして初めて中山競馬場なるところに連れて行ってもらった。地下鉄東西線に乗り、西船橋で降り、バスで競馬場まで行く、中は競馬新聞と赤鉛筆持った目がぎらぎらしたおっさんばかり、すこし引いたが、だんだん慣れてきたから不思議である。あざやかなな緑色のターフ、おおきなスタンド、なにもかもが驚きで新鮮でした。昭和48年はあのハイセイコーが皐月賞とった年、空前の競馬ブーム。地方馬のハイセイコーが無敗で中央にデビュー。弥生賞、皐月賞、NHK杯まで連勝。しかし、日本ダービーでタケホープという伏兵に差され、3着に敗退した。このハイセイコー、地方場で血統もさして一流でないこの馬が中央の馬を蹴散らす姿に世のいわゆる労働者階級の人々は狂気乱舞したのである。のちのオグリキャップも同様の馬。山田洋次の映画「学校1」のなかで夜間中学に通う、競馬が唯一の楽しみの日雇い労働者(田中邦衛が好演)が有馬記念のラストランでオグリキャップを必死に応援する場面がある。その後、身寄りのない彼は不治の病に犯され、故郷東北に寝たきりで車で搬送される。泣けてくる話である。そのハイセイコーがブームの頃、よく先輩が予想紙として読んでいたのが報知新聞(いまのスポーツ報知)であり、自分もまねてよく買っていた。その紙面の片隅にあった寺山修司の競馬コラムを自然と読むようになった。「スシ屋のマサ」や「トルコの桃ちゃん」など出て来ては予想をしたり、思い出の馬を語るエッセイであった。それをまとめたのが名著「馬敗れて草原あり」「競馬場で合おう」「競馬放浪記」などである。のちにJRAのコマーシャルに出て「かもめは飛びながら歌を覚える。人生は遊びながら年老いていく」と訥々としゃべる寺山修司がなつかしく蘇る。ミオソチス(忘れな草という意味)という馬が地方に売られて、いわゆる草競馬で走る姿を見にわざわざ東北まで見にいったり、また、不運の名馬流星「テンポイント」がなくなった時、この馬に詩を捧げてもいる。私は馬券を離れて彼の競馬に対するロマンに魅了されたのである。それから今まで、かれこれ40年近く競馬とのつきあいは続いている。その後、彼の別の世界にも興味を持ち始める。寺山修司は1935年12月青森県弘前市で生まれた。本籍は三沢市。しかし、彼は「自分は動く列車の中で生まれたから故郷はない」と言っているが事実かはわからない。警察官であった父親が県内各地を転々とする。その後、父親は出征し、戦死。母ハツと三沢に疎開し、その後、ハツは米軍キャンプで働く。一時福岡でも働いているから驚く。その間、寺山修司は親戚の家に預けられる。その時、青森で映画館を営む叔父の家に預けられる。そのとき隙間見た映画に感受性が養われたとも言われている。その後中学で文芸部に入り俳句、詩、童話を学校新聞に掲載している。県立青森高校では俳句の会「山彦俳句会」を結成し俳句雑誌「牧羊神」を創刊している。東京への憧れか、昭和29年に早稲田大学教育学部国文学科に入学。しかし、その後、腎臓ネフローゼという病で入院し、在学1年あまりで退学している。そのころ書いた戯曲「緑の詩祭」が大隈講堂で上演され、あの詩人谷川俊太郎とめぐり合う。21歳のとき「われに5月を」で歌壇デビュー果たす。その後、「大人狩り」「血はたったまま眠っている」などの戯曲を発表し劇団「四季」などで上演されている。27歳のとき女優の九条映子と結婚し、昭和42年に劇団「天井桟敷」を旗揚げしている。私が会社はいりたての頃であり、澁谷の場外馬券場の近くで九条映子と歩いていた寺山修司と遭遇している。とにかく背の高い大きな男であったという記憶がある、コートをひっかけのそのそ歩いて来た寺山修司、思わず見とれた記憶がある。劇団「天井桟敷」もこの近くにあった。当時は新宿の唐十郎「状況劇場」と張り合っていた。劇団員どうしの路上乱闘事件もこの頃。とうの二人は以外と仲がよかったらしい。旗揚げ公演が「青森県のせむし男」である。彼はこの劇の「醜悪な老女」役を九条映子と親交のあった丸山明宏(美輪明宏)に頼みこみ承諾を取る。この時からふたりの親交が深まる。2作目の「大山デブコの犯罪」のあと「毛皮のマリー」で丸山明宏は主役を演じる。(いまもこの劇は上演されている)いわゆるアンダーグラウンド文化がひしめき合う熱く麗しきあの時代である。映画ではアートシアター系の低予算映画だが佳作が多く作られた時代である。寺山修司はその後映画にも進出。昭和46年「書を捨て町に出よう」を初監督。その後「田園に死す」を製作。ヨーロッパでは大変高い評価を得る。私は彼が脚本した映画「初恋・地獄編」(羽仁進 監督)が凄く印象に残っていて好きである。美輪明宏は彼のことを「千の美意識を持つ男」と評している。故郷への郷愁を持ちながらもどこか親、とくに母ハツへの屈折した思いがいろんな作品で感じられる。家を捨て故郷を捨て東京に出る。このあたりは九州の田舎からとにかく東京に出てきた私と同じで共感する。また分裂症気味に語られる彼の万華鏡のような言葉の嵐に驚嘆し感動し考えさせられてきた。九州の田舎から出てきた自分が東京の未知の世界を知ることで受けたコンプレックスや怒りや悲しみを寺山修司の言葉に同化していたのかも知れない。だからいまでも好きなのである。彼はモダンジャズも好きだった。新宿の「きーよ」というジャズ喫茶によく顔出していたらしい。「家出のすすめ」のなかで、モダンジャズが好きなのは「反逆的でスローガンない扇動、綱領なき革命」のようであるからと言っている。いまの現状みると耳の痛い話である。まさに寺山修司は世の中の常識的なもの、ありふれた幸福に反逆していたのかも知れない。
彼の詩の一編(一部)を紹介しよう、

血が冷たい鉄道ならば
はしり抜けていゆく汽車はいつか心臓を通るだろう
同じ時代の誰かれが地を穿つさびしい響きをあとにして
私はクリフォード。ブラウンの旅行案内の最後のページをめくる男
心臓の荒野をめざしてたったレコード1枚分の長い、おわかれも
ま、いいではないですか
自意識過剰な頭痛の霧のなかを
まっしぐらに曲の名前はTake The A―train
そうだA列車で行こうそ
れがだめなら走ってゆこうよ

 時代を駆け抜けた言葉の天才は47歳という若さでこの世を去る。最後に観たのがTV の競馬中継。ゲスト解説で出演していた。その日はミスターシービーが最後方から追い込んで勝った日本ダービーの日だった。どこかやつれた感じの寺山修司が笑みを浮かべ、ミスターシービーにまたがったひいきの騎手、吉永正人に賛辞を贈っていた記憶が蘇る。5月29日(日)78回日本ダービー。彼だったら、どの馬が勝つと予想するだろうか?不幸な人は追い込み馬が好きだと言っていたのを思い出す。