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長老堂 サイト開設にあたり、ご挨拶

リバーサイドを閉めて、もう1年が経過してしまいました。予期せぬ病いと立ち退きが重なり、断腸の思いで、長い歴史に終止符を打ちました。再起を目指し、また別の場所でもう一度と、思った時期もありましたが、今年で古稀の70歳、体力の衰えは如何ともし難く、また同じ中洲で、再開するには家賃など、あまりに経済状況が、大幅に変わってしまいました。いままで、いろんなミュージシャンとの出会い、また足を運んでいただいたお客様には、感謝しかありません。一時はもうジャズ界との関わりを捨てようかと思った時期もありました。
そして、倉庫に保管していた沢山のレコード、CDもまとめて処分する事も考えました、、しかし、ある時ふと、4000枚近くある、1枚1枚の特にLPレコードに、自分だけでなく.いろんな人の長年の思いがあるのではと、、、まとめて処分するより、本当にジャズを愛する人の元で、聞いてもらうのが一番いいのではと、勿論自分の生きる糧にも同時になると、、、そして思いついたのが通販でした。しかし、既にヤフオク、Amazon、楽天などで沢山販売されているし、、果たして成り立つのかと、しかもシステム組むのは容易ではない。
しかし、これによつて少なくともジャズの世界と関わりが持てる事が出来、喜びを感じる事ができると、また、微力ながら、福岡のジャズミュージシャンのCDの発売、宣伝にも役に立つかもと。ジャズは基本はやはりライブという考えは今でも変わりません。でも、また反面、日本独特のジャス喫茶文化が、今のジャズの礎を作って来たのでも事実。しかし、レコードのみを聴かせるジャズ喫茶は、もうほとんどなくなってしまいました。昭和が終わり、平成を経て、令和という新しい時代になりました。しかし、レコード文化は決してなくならないと自信を持って言えます。ジャケットから、レコードを取り出しターンテーブルに針を落とす、そしてスピーカーから流れる音を楽しむ、、まさに茶道の様な様式美です。今回、販売するレコードはほとんどがリバーサイド にあった実際のレコードです、
正直、ジャケットが傷んでるのが多いです、しかし、フリージャズなど、レアなものもたくさんあります。そしてこれからは、自分もそうしたレアなものを仕入れたり、また委託販売も積極的にやります。また、古書についても、同時に販売したいと思ってます。
そして、このサイトの立ち上げに、多大なご尽力をいただいた、一級建築士の山本昌史氏にお礼を申し上げたい、彼は、自分がマスターを引き継ぎ、リバーサイド をリュアルして開店時の時も店舗の設計をしていだだいた方です。そして、彼と知り合ったのも、昔、天神にあったジャズ喫茶「コンボ」でした。

また、今回、開設にあたり、長老堂のロゴ書体を書いて頂いた堀尾茂雅氏、チラシなど作成して頂いたMASA氏、倉庫からの搬出を手伝って頂いたミュージシャンの方々、そしてクラウドファンデイングで、多くの方にご支援いただいた方々に感謝申し上げます。

是非、時折、気軽にのぞいて頂き、お気に入りな物を見つけてください。
今後とも、よろしくお願いします。

日本ダービー回顧録〜思い出のダービー馬

日本ダービー回顧録〜思い出のダービー馬
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いよいよ、日本ダービーが東京、府中競馬場にて、5月27日の日曜日に開催される、85回目にもなる。思えば、大学を卒業して、就職で上京。着任した部署の先輩で、部類の競馬好きがおり、当時、まだ土曜日が12時までの就業で、週休二日ではなかった、田舎者が上京し、周りにさしたる友人も、勿論恋人などいるよしもない中、この先輩の後ろを金魚の糞のように付いて回っていた。そして、着いたところが、中山競馬場、この頃の中山競馬場は、今とは違い、汚く、怪しい人種が、ウロウロしていた。いわゆる鉄火場である。先輩の見よう見まねで、競馬新聞を買い、馬券を買った。その頃の馬券は単勝、複勝、枠連の3種類しかなかった、そして、目ごとに一枚一枚の馬券が、発券される。だから、かなり1レースごと分厚くなる。昭和48年の春である。丁度48年はあのハイセイコーが、地方競馬からさっそうと中央競馬に移籍し、無敗で、弥生賞に登場したのである。泥んこ馬場で、勝った。鞍上はのちに「さらばハイセイコー」といううたを自ら歌い大ヒットした、増沢末夫騎手、当時話題になった。地方競馬から野武士のように中央に来て、血統馬をなぎ倒す姿に、下流階級の労働者群は、拍手喝采し、応援していた。話を戻そう、当時会社の寮が府中の隣町、調布の深大寺近くにあった、日曜日こと、ゾロゾロ、寮の先輩達が、首からラジオをぶら下げ、朝から出で行く姿を見ていた。そう、みんな府中の東京競馬場に行ってたのである。自分も、同僚と出かけた、その日はオークスの日、勝ったのが嶋田功騎手が乗るトウコウエルザ、2着が、あの岡部が乗るスピードシンザン、⑤-⑤のゾロ目で確か7.8千ついた。200円馬券を3枚買ってたのだある。4.5万勝った、初任給10万くらいの頃である。まだ、競馬始めてすぐの頃、いわゆるビギナーズラックである。なんだか、こんな面白く、ワクワクするものはないと思い、のめり込み、まあ45年余り続けているのである。だから、ダービーの日は思い入れ強い。東京にいれば、現場にいたいと思うこの頃、来年こそ絶対、東京競馬場に、と毎年思うこの頃。ハイセイコーは前哨戦のNHK杯も勝ち無敗でダービーに。勿論圧倒的1番人気、明後日のやはり無敗のダノンプレミアムとダブルが、こちらは超血統馬、そこが違う。しかし、結果は、タケホープに敗れ、2着はイチフジイサミ、ハイセイコーは直線で失速、3着である、場内は悲鳴に近い声、声。大荒れである。競馬に絶対はないという名言を噛み締めた時である。その後、このタケホーブには、菊花賞でも敗れ2着。その後なかなか勝てず、たしか、今で言うG2を一勝して引退。さらばハイセイコーである。
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強いダービー馬といえば、カブラヤオーか、
その年は、テスコガビーというまた化け物牝馬がいて、桜花賞、オークス連覇。そしてこの両馬に騎乗していたのが、菅原泰という騎手、決して一流ではなく、ただひたすら逃げるというワンパターンの騎乗で皐月賞、ダービーと勝ったのである、それは強かった。
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そして自分が、思いで残るダービー馬🐎といえば、ミスターシービーか、いつも最後方に位置し、ごぼうぬきする、あの剛脚に痺れていた。騎手はあの吉永正人である、今コメンテーターとかで、テレビに出る吉永みち子の元旦那である。寺山修司が彼の大のファン、
丁度ダービーの日、フジテレビの解説で出演していた。この頃すでに寺山修司は病気を患っていたのである。寺山修司は競馬が好きなって、彼のエッセイとか競馬に関する本を貪り読み、その都度、ロマンと郷愁に浸っていた。「馬破れて山河あり」「競馬への望郷」とか、報知新聞に連載していた、競馬エッセイが大好きだった。すし屋の政、トルコの桃ちゃんとか必死に馬券を握りしめて、当たったり、外れたりする悲喜こもごもに、市井の人々の姿に自分を重ねていた。かれは、一時馬主にもなった、その経緯が面白い。ある時、雑誌で、地方競馬の馬の事をドサ回り呼ばわりし、それを見た大井競馬の調教師が激怒し、それを聞いて寺山修司が謝り、、馬主になり、ある一頭をその調教師に預けた、それが「ミオソチス」という牝馬。ミオソチスとは、日本名で忘れ草という、ひっそりと路上に咲く、一輪の花である、、粋な寺山修司である、いい名前である。いまその馬と映っている写真をリバーサイドのカウンターの後ろに貼っている。この写真は、絵葉書で実は、寺山修司と親交のあった、新宿に住んでるもの書きの人が何年前か、リバーサイドを訪れてくれ、寺山修司がすきだっといだら、後日絵葉書を送ってくれたのである。大事な絵葉書。
寺山修司とは、じつは、一度すれ違ったことがある、渋谷の場外馬券売り場近く、天井桟敷もその近くにあった。横に女性が一緒、おそらく九条映子だったろう。下駄を履いてたようで、恐ろしくおおきな男の印象でした。ミスターシービーの解説のあと、しばらくして、死去の訃報。ミスターシービーは、その後菊花賞もとり、シンザン以来の三冠馬になった。悲しかった。寺山修司は天国で、さぞかし喜んだろう。今はかれの本、映画、芝居、競馬感、自分の人生にこれだけ影響受けた人はいない。彼には、都会のひとにはない郷愁がある。
ミスターシービーの後現れたのが シンボリルドルフである。この馬は憎たらしいほど強かった。とにかく、馬券は取れた、しかし、トリガミつまり、当たるが儲からないの繰り返し。こんな馬は余り思い入れがない。むしろ、その後現れた名バイプレイヤーに惹かれる、例えば、ひたすら逃げて買った、ミホノブルボン、サニーブラウン、特にサニーブライアンは、皐月賞でも、大外から逃げ切り、馬連をとって、万馬券せしめ、大儲けした記憶がある。そのほか、父ハイセイコーの無念を晴らしたカツラノハイセイコ-とか、競馬は血統とよく言うが、確かに、父が母が、果たせなかったダービーを🏇、勝ち取るというドラマがある。他のギャンブルにはない、血統というこのロマン、長く続けてきた魅力がここにある。また、牝馬で圧倒的強さで勝った名牝ウオッカなど、思い出は尽きない、今年もあと6時間余りで、第85回ダービーが始まる、そして、昨日、初孫が生まれた。東京の息子から連絡。女の子、ウオッカみたいに強く美しい女になって欲しい。しかし、名前を聞いてドン引きした、、、これはここでは書けない、、、余りに衝撃的で、なお感動的な名前、、、。血統を次ぐ、、、わしの。
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アウトロー臨終図鑑 外伝

アウトロー臨終図鑑 外伝

山平重樹の書いた「アウトロー臨終図鑑」
最近の本で、一番強烈な印象を受けた。著者はいろんなアウトローを、亡くなった年代別にひとりひとりに、個人的な付き合いや、思い出、また印象等から、書き記した、本。有名な人も居れば、初めて自分が知った様なマイナーな人まで、多彩に記実している。
アウトローと言えば、ヤクザ、左翼運動家、右翼、が定番だが、例えば夜桜銀次もその一人、彼の名前を知ったのは菅原文太演じる東映映画「山口組外伝〜夜桜銀次」
である。博多の街が随所に登場する、撃たれた祇園あたり、昔、近くに住んでいたので、懐かしい、その旅館がまだあるという。山口組の刺客として、送り込まれた銀次が、金を貢いでいた、炭鉱経営者が、殺し屋を雇って殺したと言われている。彼は確か大分出身の男、最後のシーン、撃たれた、血染めの背中の夜桜の刺青がなんとも印象的。しかし、この映画のレンタル探すの、大変だった。今はこの種の映画🎞Amazonプライムとかで、見放題とか。ヤクザ映画ファンとしては何度も見たい作品。CAEF7C3E-541E-46EB-947B-7CA342A9E080
そして、次に印象的なのが、アマ将棋師、小池重明のこと。いまでこそ、藤井聡太が、脚光浴びているが、はるか昔、もっと凄い棋士がいたのである。彼の凄いのは、いわゆるかけ将棋に生きた、いや生きざるを得なかった天才棋士、その私生活の奔放、無頼から、度々、問題起こし、プロには認定されなかった。自堕落な、生活の果てにあったものは?
団鬼六が、後年面倒見たが、最後病床から、抜け出てプロとの試合で、ボロボロの身体で、勝った伝説。昭和の坂田三吉である。A0798392-8C06-47B9-A93A-0EFE1BE0145F

そしてもうひとり意外な人がそれは高橋和巳である。彼がアウトロー?異論があろう。しかし、当時反権力の学生のシンボルであった、この若き京大の助教授。苦悩と挫折の生涯。丁度、自分が、大学時代、昭和43年から昭和47年までの間、、彼は京大の助教授であ京大闘争に身を捧げ、左翼運動家のシンボル的存在でした。かれの「邪宗門」〜「我が心は石にあらず」など、当時貪り読んだ記憶がある。今もかれの本をリバーサイドに置いている。学生と大学当局の狭間で悩み続け、三島由紀夫が割腹自殺した、半年後、39歳の若さで、癌で亡くなった。真摯で原理主義の人でした。D44B0605-0C27-4532-8585-79081E7D8E39

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また、小説家も何人か取り上げている。
檀一雄もそのひとり、火宅の人と呼ばれた、豪放磊落、自由奔放な、生き方は、類を見ない。よく無頼派、破滅型と言われるが、太宰治とは違い、男性的で、明るいところがある、かつて、晩年ポルトガルのサンタルスカに1年4ヶ月滞在し、現地の人との交流、得意の料理を振る舞い、毎晩飲み明かしたらしい。確かRKB毎日放送が、高倉健が檀一雄の足跡を🐾巡る旅のコメンテーター役をした番組を観た事がある。「我れ生涯にひとり」と天然の旅情に赴くまま、世界中を放浪した、檀一雄、男のロマンを感じる、自分も店辞めてからは、とにかく奔放で自由な旅を最後にしたい。自分の場合は旅打ち旅行になるか?最近、檀一雄の作品、大林宣彦の遺作として、「花筐」を映画化🎞し、観ました。唐津が舞台の幻想的な素晴らしい映画でした。三島由紀夫がこよなく愛した作品だとか。
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そして、もうひとり、色川武大も取り上げていたもう一つの名前を阿佐田哲也という、「麻雀放浪記」はギャンブル小説のバイブル、〜朝がきて、麻雀で徹夜したから、阿佐田哲也という名前をつけたらしい。生粋のギャンブラー、ナレコプシー病という、睡魔に襲われる奇病を持ち、麻雀中にも牌をもつたまま、居眠りをすると有様。異常な食欲の為、肥満になり、胆嚢を患う、晩年は東北は一ノ関に移住した。ジャズが好きだったらしい、あの「ベイシー」にも時折顔だしていたらしい。師匠と仰ぎ親しかった、伊集院静が、「いねむり先生」という本を出している。映画化にもなった。二人は競輪仲間でもあった。全国の競輪場に二人で、出かけていたらしい。二人の友情がほとばしるいい本、面白かった。しかし、色川武大で、「離婚」「狂人日記」などの純文学の旗手でもあった。80625151-2155-4CC7-995A-9F9050D06E28

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この本で、寺山修司も出てくる、彼のことは、散々書いてきたからここでは、省く、
あと。中上健次、梶山季之、中島らもなども。
またそのほかで、左翼運動家がたくさん出てくる、元赤軍派、全共闘、、そして所謂、民族派と呼ばれる人々、野村秋介なとその代表。そして、ヤクザ、俳優では、鶴田浩二、若山富三郎、成田三樹夫、川谷拓三、歌手では、尾崎豊が唯一取り上げられている。たこ八郎、藤山寛美、横山やすし、など、破天荒な人ばかり。
しかし、まだ亡くなった、ここで取り上げられなかった、アウトローは沢山いる、第二弾を待ちわびる。それぐらい面白かった、ひとによっては、ひとり2.3ページで終わるから、物足らないかも、でもこの作者山平重樹が、一番のアウトローかも知れない。

real jazz revolution 5を終えて〜雑感

real jazz revolution 5を終えて〜雑感
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今年も5月2日に大名ROOMSで盛況のうち終える事が出来ました。思えば、最初この企画を思いつき、5回目になりました。最初は、自分の個人的趣味の実現、まあ簡単に言えば、道楽で始めたようなもの、、いわゆるフリージャズの祭典と言われてはいますが、自分が聞いてきた1970年代あたりのフリージャズとは少し趣きは違う、、それは当たり前の事で、演奏する人達が、その年代に生まれた人が多く、リアルに生でフリージャズを聴いて来たかほとんどいないからです。その頃は、あのスイングジャーナルの表紙にアルバイトアイラーなんかが選ばれていましたからね、フリーの記事も結構あった、相倉久人や、間章、副島輝人なんかの評論が結構掲載されていたかと。当時自分は就職で、上京、夜な夜な、新宿や、荻窪とか、だいたい中央沿線辺りのジャズの店に、通ってた。特に紀伊国屋の裏にあった新宿のピットインやコマ劇場近くのタローにはよく通ったなあ。
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あの頃はナベサダや、日野皓正などビッグな人が出演しており、目の前で聴いて震えた記憶がある。勿論その頃は「blue note」などはなく、外タレも、こういう店で演ってた。そして、いわゆるフリージャズの人達の演奏もよく遭遇した、山下洋輔、佐藤允彦、冨樫雅彦、沖至、高木元輝、豊住芳三郎、森山威男などなどいまでも活躍している凄い人達を、目の前で聞いた。特に悔しく残念なのは、阿部薫を聞けなかった事である。その頃、池袋なんかの店でソロライブをよく演ってた記憶がある。何故かわからない、その頃はフリーだけでなく、ナベサダをはじめとする、メインストリームも同時によく聞いてたからか、そこまで足を運ばなかった。昼間はサラリーマンをしており、夜時間を見つけては、一人で行ってた、勿論この頃、新宿、渋谷などには、多くのジャズ喫茶があった。新宿は「DUG」「DIG」「木馬」「ポニー」「ビレッジバンガード」「サムライ」など、渋谷は「オスカー」「ジニアス」など、よく通った、フリージャズは特にこうしたジャズ喫茶でよくかかっていた。コルトレーンの「クルセママ」「アセンション」「神の園」などが、平気で流れていた、アルバイトアイラーとかセシルテイラー、アーチシェプ、ドンチェリーとかそこで、知った。暗い店内で黙々と聴いてる人がいた、自分もその一人、九州の片田舎から上京し、流石に会社が馴染めず、退社後、ひとりで、新宿を、徘徊した。そして、入社して3、4年目ぐらいだったかなあ、正月、九州に帰らず、東京で過ごした、その時、エルビンジョーンズが3Daysライブの告知を見た、そして、何日目かに、ピットインに行った。その時のメンバーが、エルビンジョーンズ、山下洋輔、
武田和命、国中勝男、向井滋晴だったか、それはそれは凄い演奏だった。いまリバーサイドのトイレにその日の写真を額に入れて飾っている。トイレで山下洋輔と遭遇し、連れションしたのである。克明に覚えている。その数十年後、まさかリバーサイドに山下洋輔が、来店しようとは、その話をしようかと思ったが、目の前にいると流石に出来なかった、その時は、感無量でした。しかし、その後、山下洋輔トリオのドラマー小山彰太とは昵懇になり、昨年のreal jazz revolution4のゲストで出演してもらった。いつかは山下洋輔もと思うのは、贅沢か?思えば最初、天神にある、あんまり似つかわしくないホールで第一回をreal jazz、revolutionを開催した。衝動にかられて、とにかく開催した。それまで、福岡のジャズイベント、中洲ジャズなんかも含めて、なんか違うよ!とずっと思ってたマグマが爆発したのである、ボーカルをゲストに、ジャズバンド、ビッグバンドが演奏し、まあ定番のジャズ演奏し終わる、これはこれで、ジャズファンの大半はこうしたジャズを楽しみに来ている、、、昨今はボーカルがジャズの花形でありそれぞれ多くのお客さんが、詰めかける。それと並行して、インストジャズへの客は段々と減ってきていた。特にフリージャズ系は、まさに、風前の灯、しかし、微かな光の様に、こうしたジャズを演奏するミュージシャンはいるのである、勿論、生活して行かなくてはならないので、万人受けするジャズを演奏しながら、影では、悶々とその機会をまってる様な、、、人達。しかし、沢山お客さんの来るライブほどあんまり、真剣に聴いてるというか、というとまた別問題。要は喧騒の中に自分を置く事で、安心しているだけなのである。仲間がいる、演奏後、打ち上げでワイワイやる事が目的になってきている。いつも間にか、ジャズを聴く事が手段になってきている。目的はジャズを聴く事の筈、まあそれに付随して、食事、ダンスパーティ(舞踏はアート)みたいなライブが多くなってきている、自分はこうした物とは一線を画したい。フリージャズはこうした音楽文化とは対極にあると思う。確かに客はいつも少ない、しかし、ひとりでも必死で聴いてる人がいる方が気持ちがいい。ジャズへのリスペクトが強い客、そして、歴史や過去のレジェンドへの尊敬の念を持っている人、これはミュージシャンも一緒。今回、real jazz revolution5で大ブレイクした、pd の二人も、過去のフリージャズの事、ミュージシャンの事よく知ってる、研究しているのである。これである、キースジャレットは知ってるが、バドパウエルを知らないじゃ話にもならないのである。
ジャズを聴く、演奏するには、それなりの知識、勉強は絶対必要なのである、しかし、いまのジャズスクールなどでは、ます教えないだろうな、もっとも教えてどうこうなるものでもないが、、。自分の足で、いろんな人と出会い身につけて行かなくてはならない。ジャズ喫茶はそうした場所であった。70年代、80年代はある意味それが出来た。ジャズ喫茶が衰退していく昨今で、それを伝承していくのは大変なのである。リバーサイドも、再開発かなんか知らないが理不尽にも、ビルの建て壊しが予定されており、立ち退かなくてはならない、、、日本独特のジャズ文化を伝承していくには、店の使命感も大事だが、ファンの意識も大事であるという事でもある。しかし、いま世の中、一億総タレント時代、歌ったり、演奏したりする人は沢山いる。それはそれでいいが、いい演奏は、やはり聴く時はきけと大声で言いたい。
また、来年の5月2日に大名ルームスでreal jazz
revolution 6を開催する予定。頭の中で、もう構想が始まってる。
これは、もう自分のライフワークである。
ゲバラは言った、「祖国か死か」
自分は「ジャズか死か」である、ちと大袈裟だが、、
(文章のなかの敬称は略してます)
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私小説が面白い〜西村賢太の世界

私小説が面白い〜西村賢太の世界
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私小説!この言葉から思い浮かぶのが、暗い、チマチマした話、四畳半、とかく、ネガティブなイメージが先行する。私小説の定義なるもの、ちょっと調べてみた、

ウィキペディアから、抜粋

私小説(ししょうせつ、わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。
1907年(明治40年)の田山花袋「蒲団」を私小説の始まりとする説が有力であるが、平野謙は、1913年(大正2年)の近松秋江「疑惑」と木村荘太「牽引」を、私小説が確立した時期だとする[1]。これらが多く自己暴露的性質を持っていたのに対し、志賀直哉の『和解』のような作風を「心境小説」と呼ぶ。客観描写ではなく、対象を見た著者の内面を描く事を主眼とした。

文学史的には、絵空事のストーリーを楽しむロマン主義を否定する形で生じたリアリズム(写実主義)の極北に相当する。あらゆる空想的要素・虚構的要素を排して、実際にあった事実を示すことで、「真実を描く」という芸術の目的を達成しようとした。結果的に、ひたすら作者の実体験に範囲を限定して、身辺や自分自身のことを語ることが多い。描写も、客観描写よりも内面描写を中心とすることが多い。

その名称から、「私」と一人称で語られるものとする誤解があるが、三人称のものも多い。私小説の「私(ワタクシ)」とは「公(オオヤケ)」の対語、つまり「プライベートなこと」と解することもできる。小説においては作者と作品の主人公は同一視出来ないとするのが一般的だが、私小説の解釈では主人公がしばしば作者本人と同一視され、作者の年譜との比較検証がされる事もある。破滅型私小説として、花袋、秋江に続いて、葛西善蔵、嘉村礒多、初期の太宰治、また調和型私小説としては、志賀の弟子筋の瀧井孝作、尾崎一雄、藤枝静男、網野菊などが挙げられる。

私小説は、リアリズムが根幹にあることがわかる、真実を元に描かれるのだから、自ずと作家自身の身の回りの出来事、心象が中心になる。
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自分はどちらかというと、太宰治や、葛西善蔵などの破滅型私小説が好きである。後々の作家としては、一時はまった車谷正吉という作家がいる。この人の作風は、ちょっと今までの作家とは違う、、なかなか表現難しいが、谷崎潤一郎、、ごとくというか。最初読んだのが『鹽壺の匙』その後、直木賞もらった「赤目四十八瀧心中未遂』を読み、フアンに。映画化もされ、寺島しのぶの出世作となる。監督は、長崎生まれで博多育ちの荒戸源次郎、九州大学建築学科卒という異色の人、鈴木清順の「チゴイネルワイゼン」「陽炎座」などをプロデュース。この「赤目四十八瀧心中未遂」は自身が大阪時代住み込みで焼き鳥屋にいた頃の話がモチーフに、私小説というより、長編小説、実に面白かった。最近はそれ以後あんまり読まなくなった、、というより、結婚して作風が変わったからかも。のめりこのも早いが飽きるのも早い。しかし、太宰治だけは、いまも時折読む、やはり彼は別格である。檀一雄も好きであるが、やはり太宰治こそ、私小説の雄だろう。葛西善蔵も、破滅型、いわゆるデカダンスの代表。しかし、最近になって、西村賢太という私小説家がわたしを虜にしている、ほぼ全作読んできている。そして彼が尊敬している、使用初期の私小説家、藤澤卓造も、彼の本で知った。富山のかれの墓から、自分の部屋には戒名、諸々持ち帰るほどの異常さ。そして、中学卒業して、日雇いをしながら、風俗通いの日々、まさに酒とバラの日々なのである。

「苦役列車」で、芥川賞を貰い、一躍有名に。実はその前にかれの「暗渠の宿」を読んでいた。

その時、あまりの凄さ面白さに、名前を覚えていた。その後の受賞に驚嘆。選考委員会で、あの石原慎太郎が絶賛したのがなんとも奇妙。

まさに、私小説の権化、いつもでてくるのは本人(かんた)そして、同棲する女とのチマチマしたやりとり、喧嘩、恋愛と呼ぶにはあまりに泥々した生活、全く美しさそこにはない。インテリジェンスの匂いは全くない。しかし、読めば読むほど思い当たる事の連続、そして男というものの業が、これでもかこれでもかとたたみかける。しかし、底知れぬユーモアに満ち溢れている。決して絶望感はない、太宰治なんかと違い、生、そして性への欲求が果てしない。だから、また買って読む。「小銭をかずえて」そして、デビュー作「けがれなき酒のへど」「どうせ死ぬ身のひと踊り」など、エッセイ「どうしても小説にすがりたい夜がある」など特にいい。かれが尊敬する作家が、田中英光、藤澤卓造、そして意外にも大藪春彦。中卒でありながらも、文学を志す気概、あの中上健次を彷彿させるが、それほど、難解な純文学でもないのである。しかし、女性の読者はどうだろうか?少ないのでは、時折、どんな人が、読んでるのだろうかと想像する。風態もとても女にモテそうな感じではない(失礼)時折、テレビにも出るが、放送禁止用語連発していた。でも好きである。私小説もバカにしたものではない。フィクション駆使し、物語を作ってもそれは所詮、作りば話なのである。「事実は小説よりも奇なり」である、お暇な方は是非読んでください。
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